お別れの歌

フジファブリックを聴き始めて浅い僕が最近気づいたのが、お別れの歌。
フジファブリックにはお別れの歌がとても多い。
ある種、ユニコーンのすばらしい日々のようでもある再会を祈るような「記念写真」
永遠の別れを幼い気持ちで見つめたような詞、ハードなバンドサウンド「黒服の人」
とてつもなく未練タラタラな「笑ってサヨナラ」
それ以外にも本当に多くの曲で別れが歌われている。
そして本当に多くの曲で主人公は孤独だ。

ここまで痛々しい別れや孤独ばかりをうたっているバンドを僕は知らない。
あるいはシンガーソングライターの場合だったら、それも理解できるだろうが。バンドというものは孤独というよりも温もり溢れるものだろう。
例えば、中村一義がバンド「100s 」を結成して、彼は状況の裂いた部屋を抜け出し、以前以上に温かみのある曲を作るようになった。(賛否両論はあるが)

志村正彦という人間はどんなにバンドで曲を作り演奏していても孤独が消えていない。

歌詞がそれをよくあらわしている。

特にクロニクルに至っては完全に孤独なアルバムだ。
フジファブリックというよりも志村正彦の人生をあらわしたかのような曲ばかりだ。
このアルバムではメロディーと歌詞どれもが孤独に震えているようにも聞こえる。
弱い部分をさらけ出している。自虐的にも思えるほど。

だから僕は大好きだ。
か弱い気持ちすら音楽に昇華されれば強いものにも負けない。

もし温もりを志村正彦が唄ったらどうなったんだろうかと思ってしまう。
くだらない妄想だ。
「もしジミヘンが~」とか「アベフトシが生きてればミッシェルが~」と同じくらい絶対不可能な妄想だ。
だから僕は多くの音楽を聞く生活の中で、フジファブリックを忘れないでいたい。
彼らはきっと志村の意志とか世間の期待を早めに放り出して自分達のやりたいことをやっていくだろう。その自由な音楽が僕は聞きたい。


おおきな声で

ライブに僕はあまり行かない。
あんまり行きたくない。
ライブでは腕を振り上げノリまくって客も歌う。
正直好きじゃない。ミュージシャンとリスナーの関係は音だけで繋がってればいい。
その関係にむだな振り付けや客の歌はいらない。

前いったとあるライブで近くの女性がずっと歌ってた。
お前の声に興味ないんだよ。

最近の音楽のライブ映像をみるとふと思う。
棒立ちのなにが悪いんだと。しっかり聞いているんだよと。

長澤知之のライブでも合唱とかやんのかな?

BIRDS

COILの代表曲のBIRDSという曲がある。佐藤洋介さんがライブに出れなくなってからは山崎まさよしと岡本定義がよく一緒に演奏してる。
ただその映像や音を聞くたびに、なにかが違うと思ってしまう。
普遍的なメロディーや佐藤洋介作曲にしてはビートルズの匂いがするこの曲をなぜ山崎まさよしが歌っては違和感があるのだろうとずっと考えていた。
考えると結局声質的な問題にたどりつく。
低音が響く岡本定義の声質と、高音を出してもどこか特徴的な中音が耳につく山崎まさよし。
そして佐藤洋介はロバートプラントにも通じる特徴的な高音がある。
岡本定義と佐藤洋介の正反対とも言える声質が合わさって素晴らしく響くのだろう。それこそポールとジョンのように。
ただやはり本当に違和感を覚えるのはそこに佐藤洋介さんがいないことにだ。
ポールだけで演奏するビートルズナンバーがどこか味気ないものに似ている。

偉そうに言っておきながら僕はCOILのライブにいったことがない。
むしろライブというものにまともにいったのは去年の長澤知之のワンマンライブしかない。
だからこそ佐藤洋介と岡本定義の二人が合わさったライブに行ってみたい。
きっとそれはエンターテイメントとして完成されつくしたものではないだろう。CDよりも下手かもしれない。
でも二人が揃い一つの曲を歌ってる姿を見たいのだ。
ビートルズのように気づいたらいなくなってる、なんてことにならないように。

ずっとウソ

先月、斉藤和義が自身のヒットシングル「ずっと好きだった」を歌詞を変えて「ずっとウソだった」としてYoutubeに発表した。
それに対していろいろなところで意見が上がった。ある大物ミュージシャンは肯定して、あるPOPバンドのギタリストが否定的な意見を出して逆に批判されたりもした。

僕はこの曲について、またやってくれたなぁだとか軽く思っていた。

自分にとって斉藤和義はそんな存在だ。
ファンではないが、たまにCDを買う。
斉藤和義はいい意味で僕を安心させてくれる音楽なのだ。
ずっと変わることなく自らの音楽(そしてルーツミュージック)を演奏し続けている。
たとえば、フジファブリックなんかを聴いているとアルバムごとにまるで個性が違う。
それはそれでもちろん凄いことだし、当然のことだ。
ただ変わり続ける音楽が多い中、自分のポリシーを演奏し続ける斉藤和義をきくと「いつでも来いよ」と馴染みの居酒屋に言われてるような気分になる(馴染みの居酒屋なんて実際僕にはないが)

同じような心境は奥田民生や山崎まさよしにも感じている。

斉藤和義の魅力はやはりロックだろう。時にハードロック的だったりオールドロックだったり。あとたまにポップだったり。
そして曲の特徴として、言葉数が異様に多いこともあげられる。
奥田民生メロディーが4分音符のようなもの(もちろんそれだけではないが)なのに比べて、斉藤和義は言葉数が圧倒的に多いラップにも匹敵するほどだ。
特に「幸福な朝食、退屈な夕食」なんて単語の連打である。一聴しただけではまるで意味わからない主張にロックの原点的なものを感じたりもする。

あと好きな点が批判歌が多いことだ。
ちょっとせこせこしい批判もあるが。そういう典型的なものもロックとして楽しめる。

ただ、「ずっとウソだった」が長く歌い継がれてほしくはない。
世の中的にもこんな歌が無くなって欲しいし。
この曲のイメージばっか付くのもあんまり良くないと思う。
タグ:斉藤和義

麻酔が効いてるあいだは

COILの音楽でよくいわれる「0・10」以降と「0・10」以前。
音の質感もまるで違うし、曲自体の内容もまるでことなる。
「ROPELAND MUSIC」から「AUTO REVERSE」まで、比較的UK的な要素と遊び心溢れた曲、そしてPOPなメロデイが感じられた。
しかし「0・10」以降のアルバムは遊び心よりもその実験性に特に驚かされる。ある種RADIOHEAD的でもあるサウンド作り。
そして歌詞の面でも「0・10」と「LOVE」は以前までと違い真面目で重いものになっている。岡本定義の作詞センスの素晴らしさが発揮されてる。
「0・10」収録のLast portraitは特に作詞が光る作品である。
ピアノ主体のシンプルなバラード。
しかし歌詞はたった四行ていどしかない。
そこには現代のPOPミュージックが失いがちな情景が見える。
「もうすぐ夏です」

実験性があろうとユーモラスであろうと変わらないのがCOILが良質なPOPミュージックをつくってるということだ。
タグ:COIL

俺はグビ

長澤知之の「俺のアレ」につぐ「俺」シリーズ?最新作の「俺はグビ」

正直ROCKな曲が多いJUNKLIFEの中で一番アッサリした曲です。
アコギだけの弾き語りで情けない男の心情を叫ぶように歌っています。
1stシングルに入っている「三年間」にも似た悲壮感が出てます。

歌詞が情けないです(笑)

一見さんはあんただろう俺は常連

なぁ大将そうだろう覚えておいて

生活感たっぷりの曲です。
そして、なぜかPVが出来てました。
PVを作るなら「回送」とか「JUNKLIFE」だと思っていたんですが、「俺はグビ」とは予想外でした。
そして、このPVが過去最大のユーモアを発揮しています。
しかも長澤知之なぜか演技してます(笑)

必見です。


セブンスター

コンビニにセブンスターがまるでない。

セブンスターを探しながら、ふと俺はなんでセブンスター吸っているんだっけ?と考えた。

中村一義だ。
大人に憧れたあの時、嫌なことから逃げ出したかったあの日にセブンスターを聞いたからだ。
中村一義のセブンスターという曲は100s結成直後ということもありシンプルなバンドサウンドに(中村一義には珍しい)歌詞を聞き取れる言葉使い。
ただシンプルながら力強いメロディーと詩だ。100sの初期の名曲だ。

とくに歌詞は強い気持ちを感じさせるものだ。

いたい、いたい、いたい、いたい
そりゃそうだよ痛い
心に本当でいたい、約束だもんな。

こんなことを理由にセブンスターを吸っている自分がおかしい(笑)
まだしばらくあなたに期待をし続けます。救ってもらったから。
タグ:中村一義

P.S.S.O.S

こちら桃源郷より桃源郷へ P.S.S.O.S

この曲は2010年代のCreepになりえる曲。
RadioheadのCreepは言わずもがな名曲(まぁ賛否両論だけど)で有名曲。
トムヨークはCreepで彼女は美しい天使だと歌い、自分は醜いものと痛々しく歌った。
その歌詞とあのサウンドによって世界にRadioheadの名前をとどろかせた。

一方、日本のインディーズの長澤知之は自らの気持ちを手紙の形で「あなた」に伝えてる。

ただし自分の妄想の中で

ある意味フジファブリックの詞に通じる歪さがそこには存在する。
痛々しい寂しさ、社会からの孤独、そして「あなた」への気持ち。そのすべてを妄想の中で書き、妄想のポストに投げ込んでいる。

そして、そんな自らを理解して嘆いてもいる。
僕からどんなに望んだところでこの病は治らない  ダイアリーダイアリー僕は治りませんでした

この考えが終わらない限りこの家は核シェルター ダイアリーダイアリー僕は泣けばいいんですか

そして皮肉も込めて自身のいる場所を「桃源郷」と呼び、追伸助けて、と叫んでいる。
こちら桃源郷より桃源郷へP.S.S.O.S
 
この桃源郷は自分の中で完結するという意味にも取れるし、「あなた」のいる桃源郷に助けを求めているようにも取れる。
どこまでも孤独という点でCreepと印象が似ている。

サウンドも静かな天使のような歌声の前半と、後半サビの叫びだした声の違いが、切迫した詞の世界観を表現している。
古い無線通信の音のようなギターリフ、轟音のバッキングも見事。
この世界をたった一人で考えだしたことが驚きです。

ただ唯一の欠点がキーがむちゃくちゃ高いこと。
ライブでもたまにミスしたりしてる。
ただワンマンライブ「ナガサワンマン5」のときのこの曲は高音こそ出ていなかったが、鬼気迫る声が感じられた。
その姿勢にタイプは違えどアベフトシ(ミッシェルガンエレファント)のギターを弾いているときの姿を思い出した。

この曲が正当に評価されることを切に願う。

地平線を越えて

僕が地平線を越えてを初めて聞いたのは半年以上前だった。
それは志村さんがなくなった後の、フジフジフジQでの斉藤和義の歌声でだった。

ツェッペリンみたいだな~力強い歌だな~そんなことを思っていた。
斉藤和義の歌を聞いてからオリジナルを聞いたので、勢いが足りないなーとか一瞬思ったが、すぐにそれは違うなと考え直した。
一音一音が重くはねたリズムに乗る鋭いギターリフ、十二弦ギターのサイケ感溢れるオブリ、ボンゾみたいなドラム、そして怪しげな歌声。ツェッペリンを消化したようなフジファブリックの音楽になってる。

歌の実力だけでいえば圧倒的に斉藤和義の方が上手だろうが、やはり志村の作った曲で志村以上のものを演奏するのはハードルがとてつもなく高い。志村すごいなと深く感心した。

スガシカオ曰く「作った人が一番上手く歌えるというのは、作った人のエゴ」
奥田民生曰く「自分より矢野さんが歌ったほうが上手かった」

作った人物が必ずしも一番ではない。けれど、志村さんや長澤知之に関してはそれがあてはまらないだろう。誰が歌っても本人以上になりえない。

ただ志村さんはもうこの世にいないから、他のメンバーがどうか歌って欲しい。
志村正彦の曲ではなく、フジファブリックの音楽だから。


舌出して笑い飛ばしてしまおう

左巻き

みんな同情は出来るけどそれ以上が出来ない。
左巻きのゼンマイ/長澤知之

地震が起きてからこの曲をよくきく。
安全で日々の悲しいニュースを当たり前に受け止めていた僕はこの曲をひねくれたラブソングだと思っていた(実は長澤知之にしてもラブソングなのかもしれない)

あんな大きな事が起きて、いまだ続いている。

僕は同情をした。
ただ同時に安心をしてしまった。自分に被害がなかった事に。
同情は出来る、あとは僅かばかりの寄付をするくらいしか出来ない。
同情以上の事が出来ない。

悲しいニュースはしょっちゅうだからいちいち落ち込めない

なにかしなくちゃいけない。けどわか
らない。
惨めになって仕方ない、だから働いている。

色んなものの見え方がかわった。

テレビはなにも真実を言ってくれない。
悲しい人々を映し、数を追い求めている。
忌野清志郎のサマータイムブルースはなにも僕らを変えなかった。
安全に浸り変わろうとしなかった。

いまある言葉を歌うよ未来へ

タグ:長澤知之

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